賢明女子学院中学校・高等学校

光あれ 日々の所感 校長 松浦明生光あれ 日々の所感 校長 松浦明生

2017/10/30

サラダの奪い合い?              

カトリックの思想や歴史に関する著書の多い学者の竹下節子さんは、いつもなるほどと思わせる視点で物事を分析してくださる方で、私のとても好きな学者・評論家の一人です。
その竹下さんが著書の中でフランスのある雑誌に載っていた小さな話を紹介しています(竹下節子『カトリック・サプリ2』)。色々なことを考えさせられる話なので、話の途中途中で感じたことを頭の中に留めておきながら話を聞いてください。こんな話です。
 フランスのあるセルフ・サービスのカフェテリアでの出来事でした。横長のテーブルが何列も並んでいて、一人の初老の女性が盛り合わせサラダの皿を持ってきてテーブルの上に置きました。そこでフォークを取り忘れたことに気づいてカウンターに引き返し、席に戻ると、信じられないような光景に出くわしました。移民風の外国人が、彼女のサラダにフォークを突っ込んで食べ始めているのです。「なんて図々しい外国人だろう」とむっとした心を抑えた彼女は、「失礼」と冷たく言って、隣に座ってサラダの皿の乗ったトレイを自分の方に引き寄せました。すると、その外国人男性は、無言でトレイをまた引き戻して彼女と自分との間に置いて、再び自分のフォークを皿につきたて始めたのです。そのあまりの図々しさの前に声を失った女性は、騒ぎ立てるのも大人げないと思い、ぐっと我慢して同じ皿からサラダを半分食べました。傍(はた)から見ていると、いい歳をした大人が二人でトレイを奪い合いながらサラダを食べ続ける光景は、子どものケンカを見ているようで、ほほえましいというかおかしいですね。
 サラダが終わるころ、外国人は立ち上がって、大盛りのフライドポテトの皿を手にして戻ってきました。彼はそれを女性と自分の間に置いて、「一緒にどうぞ」というしぐさをしたそうです。女性はポテトを半分食べました。皿が空になって、外国人男性は立ち上がり、女性にほほ笑んで大きくお辞儀をしてから出ていきました。
 この男性については、「移民風の外国人」とあるので、フランス語がよく話せない移民の外国人労働者というように考えてください。
さて、男性が出ていってから女性もそろそろ立ち去ろうと思って、椅子の背にかけてあったバッグを手に取ろうとしました。すると……バッグがないのです。「あの外国人だわ!」という叫びが思わずもれそうになりました。彼女は男がまだいるかどうか、カフェテリアを見渡しました。そこで、彼女の目に飛び込んできたのは、一列先のテーブルの椅子の背にかけられた自分のバッグでした。そして、その椅子の前には、フォークのない盛り合わせサラダを乗せたトレイが手つかずのまま置いてありました。そうなのです。あの外国人が彼女のサラダを食べたのではなかったのです。彼女がテーブルを間違えて、見知らぬ男のサラダを食べたのです。そして、その男は、彼女に感謝のしぐさをしてから立ち去ったのでした。
 意外な展開でしたね。皆さんも色々なことを考えたと思いますから、私が感じたこと、考えたことを紹介しながら一緒に考えてみたいと思います。
まず、私はサラダを取られたことに対する女性の意思表示の仕方が予想外でした。普通は自分のサラダを奪われたのですから、よほど怖そうな相手でなければ、何か一言は言うと思います。あるいは、どんなにしゃくに触ったとしてもすでに赤の他人が手を付けてしまったのですから、そのサラダを食べる気にはならず、気分を害しながらももう一度取りに行ったかもしれません。この女性はそのどちらでもありませんでした。フランス語が通じないと思ったのかもしれませんが、「失礼」のひと言以外は何も言わず、トレイを引き寄せることで自分のものだという権利を主張するこの女性は随分意志の強い人だと思いました。
男性の側に立って見ると、突然何も言わずにサラダを奪われたのですからとても驚いたことと思いますが、何も抗議しませんでした。抗議しないどころか、トレイを取り戻さず、二人の間に置きました。“二人の間に置いた”、私はこれがこの話のキー・ポイントのように思います。このサラダは自分のものだけれど、あなたがそれほどほしいなら一緒に食べようじゃないか、という意思表示です。100%自分が正しいのだからそれを主張してもいいのですが、そうしなかった。100%正しくても相手を慮って一歩譲ることのできる心の広い人ですね。なかなかできることではありません。
女性の動きにも注目したいと思います。サラダの攻防戦が終わった後、彼女は大盛りのフライドポテトを持ってきて一緒に食べようと誘った男性の親切を断りませんでした。たとえ相手が厚かましくも図々しい許せない男だったとしても、親切な振る舞いに対してはそれを受け入れるだけの心の広さがこの女性にはあったのです。そしてこの行動によって、誤解の上でしたが、サラダを横取りした男の人の存在を受け入れたことになるのです。
 竹下節子さんは、カフェテリアでのサラダのストーリーは対立や緊張がときとして一方的な「誤解」の上に成り立っていることを教えてくれるとした上で、初老の女性が泣き寝入りをすることなくサラダをめぐる奪い合いを展開したことに注目しています。すなわち、女性が奪い合いを避けず、しかし決裂まですることなく「分かち合う」選択をしたことがこの後のフライドポテトを納得の上で一緒に分かち合うことにつながったとして、「分かち合う」ことの大切さを指摘しておられます。確かにそうですね。子どものケンカのようなことをしながら自分の権利を主張しつつサラダを半分ずつ食べあったことによって二人の間の心のバリアが取り払われたのでしょうね。気がつきにくいことですが、的を射た指摘だと思います。
 今日は意外性のあるなかにも深く考えさせられる興味深いストーリーを紹介しました。自分が正しくても相手のことも考えて一歩譲る心の広さ、対立する相手の親切を受け入れるだけの心の広さを持ちたいものだ、言い換えれば、たとえ対立があっても分かち合うことで解決されることがあるのだということをこの話は教えてくれているのではないでしょうか。

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