賢明女子学院中学校・高等学校

光あれ 日々の所感 校長 松浦明生光あれ 日々の所感 校長 松浦明生

2024/05/27

一隅を照らす人 = 燈台の光のような人に

 おはようざいます。

先日、用があって比叡山延暦寺に行ったのですが、その折、山門を通り抜けたところに

「一隅を照らす。これ国の宝なり」と書かれた、大きな額縁を見つけました。比叡山に延暦寺を開かれた、伝教大師最澄の教えを、第253世の山田恵諦天台座主が揮毫された書を額にしたものでした。平安初期に遣唐使として中国に渡り、天台宗を日本に伝えた日本の有名な僧侶です。

「一隅を照らす」という言葉が私の心に響いて、学校の教育目標「燈台の光のような人になりましょう」という言葉と重なりました。

向上心を忘れず、燈台の光のような人になることを目指さねばなりませんが、私達一人一人の力は小さく、社会を広く照らすことはそう簡単ではありませんね。

額には「一隅を照らす」と書いてありましたが、一隅とは、片隅という意味です。私はその通りだと納得しました。そう、片隅を照らすことができればそれでいいのです。隣人のことを思い、少しでも社会の役にたちたいと願って毎日を精一杯に生き、自分にできることを行い続ければ、あなたの心が光を放ち、灯台の光のように道標となって周りの人の心を照らし、社会に広がっていくのです。

比叡山根本中堂には「不滅の法灯」が、最澄による開山以来今日まで千年以上、燈し続けられています。不滅の法灯とは、燈下器の油の中に浸した(ろうそくの燃え芯)に灯る、ほのかな光のことです。

マザー・テレサの愛の祈りは、一隅を照らす灯に通じます。シスターの存在は、インドのカルカッタの貧しい人々にとって、かけがえのない心の灯でした。マザー・テレサは身を挺し、分け隔て無く隣人に愛を注がれました。ひとかけらのパンも、ひとかけらの愛も無く、飢え死んでいく人々の手を握り、からだを支え、死の不安を訴える人に、耳元で神様の救いを伝えられたのです。シスターの行いは、大きな病院を建設したり、政府に働きかけるような仕事ではなく、薄暗い「死を待つ人々の家」というホスピス病棟の片隅で、ひっそりと行われていた行いです。しかし、これこそ最澄が言う「一隅を照らす」行為だと思います。

こんなお話があります。マザーテレサがお創りになった「神の愛の宣教者」という修道会では、たくさんのシスター達が、お腹をすかせた人々に温かいスープやパンを食べさせています。シスターたちが一日の仕事を終えて帰ってくると、マザーテレサはその労をねぎらいながら、いつも次のようなことをお尋ねになっておられたそうです。

「今日、スープ・ボウルを渡しながら、何人に微笑みかけましたか、手に触れましたか、短い言葉をかけましたか」と。

飢えている人が求めているのは、単にスープやパンではなく、真からの優しさ、愛であり、そのあらわれとしての微笑み、手のぬくもり、言葉なのです。

1本1本の心の灯火は、細々としたほのかな灯りでも、ここには500人以上の人がいます。皆さんひとり一人それぞれが、心に愛の灯火を灯せば、光が増幅して広い世界を照らします。ひとり一人の力は小さくても、皆の力が合わされば大きな力が生まれ、どんなことでも変えることができるのです。

しかし、全ての行為に愛が必要です。真の愛が祈りとなって、人の心を動かす力となります。あなたの行いは、スープ・ボールを渡すだけの単なる「仕事」ではなく、「共に生きよう」とする愛の行為でなければならないのです。

人を思いやる優しい心から零れる微笑みが、愛を生み、ほほえむことを忘れた人たちの心を照らします。惜しみなく心の笑みを投げ掛けて下さい。真の愛は与えられた人の心を豊かにし、与える人の心も幸せにする。自然に笑みが零れるよう、愛に満ちた毎日を過ごしていたい。

そんなことを思い巡らせながら、比叡山を降りて帰路に着きました。

さあ、今週も「The Best」で頑張りましょう!

 

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