

2026/06/22
6月は「みこころの月」です。「みこころ」とは、イエス・キリストの心、つまり、神の愛そのものを指す言葉です。少し古風にも感じられますが、この言葉の意味するところはとても深く、そして温かです。今日は「みこころ」について、一緒に考えてみたいと思います。
以前、私が担任をしていた頃のことです。いつも教室の隅でひっそりと居る、一人の生徒がいました。目立つわけではないのですが、誰かが忘れ物をすればさりげなく貸してあげ、泣いている子がいればそっと隣に座る。そういう生徒でした。卒業式の日、友達の一人が「あなたのおかげで、しんどい時を乗り越えられた」と言って泣いていました。それを見たとき、私はこの子は「みこころ」が本当に解って、実践できている、と感心しました。
聖書のマタイによる福音書11章28節に、こんな言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この箇所を歌詞にして、作曲家の高田三郎先生も、歌曲を書いておられます。高田先生はクリスチャンで、日本語の深い本質を歌曲や合唱曲に作曲された大作曲家です。
イエスのみこころとは、苦しんでいる人、傷ついている人、重い荷物を抱えている人のそばに、静かに寄り添う心。裁くのではなく、受け入れる心。声高に何かを叫ぶのではなく、ただそこにいて、温かく包み込む心のことです。
一冊の小説を紹介したいと思います。遠藤周作の『沈黙』です。遠藤周作は20世紀の日本を代表するカトリック文学者で、1966年に発表したこの作品は、今も世界中で読まれ続けています。2016年にアメリカの映画監督マーティン・スコセッシによって映画化もされました。
物語の舞台は17世紀、幕府がキリシタンを激しく弾圧していた時代の日本です。密かに来日した若い宣教師ロドリゴは、信者たちが次々と拷問にかけられ、命を落としていく現実を目の当たりにします。彼はひたすら神に祈ります。「なぜ神は黙っているのか。なぜ苦しむ者のもとへ来てくださらないのか」。しかし、神は何も答えてくれない。
やがてロドリゴ自身も捕らえられ、踏み絵を踏むよう迫られます。踏めば信者の命が助かるかもしれない。でも踏めば、神を裏切ることになる。その極限の状況で、ロドリゴはついに踏み絵に足をかけようとします。その瞬間、銅板の中のキリストが語りかけます。
「踏むがいい。お前の足の痛さを、この私が一番よく知っている。」
神様は沈黙していたのではありませんでした。ずっとそこにいて、共に苦しんでおられたのです。これこそが求め到るべき「みこころ」の本質です。神様は何時も、迷い、傷ついた人間のそばに寄り添ってくださる。その痛みを、誰よりも深く知りながら、静かに寄り添っていてくださるのです。
先月、マリア様のお話をしました。マリア様も、イエス様が十字架に架けられたとき、その場を離れず静かに寄り添い続けました。「静かな強さを持つ方」、マリア様の愛についての話でした。イエスのみこころも、マリア様の愛も、根っこは同じところにあるのす。
1951年の建学以来、75年間、この学校を支えてきた精神も、みこころと深く繋がっています。シスターたちは、燈台の光のように、静かに、そして確かに、生徒一人ひとりの心を照らし続けてきました。それは、神のみこころを、マリア様の愛を生きること、そのものだったのではないでしょうか。
あなたの周りに、今、重い荷物を抱えている人はいませんか。疲れた顔をしている人はいませんか。その人のそばに、ただ静かにいてあげること。それが、みこころを生きるということ。何時でも、誰にでもできる愛の形なのです。大きなこと、特別なことではなくていいのです。隣に座ること、名前を呼ぶこと、「大丈夫?」と一言かけること。そのひとつひとつが愛の実践であり、みこころの証しなのです。
6月、みこころの月も、残りわずかになりました。今日一日、誰かの重荷を軽くできる、そんな一日でありますように。誰かの幸せは、あなた自身の幸せのですから。